『コレラの時代の愛』とビクーニャ(ラクダ科)

 名前をアメリカ・ビクーニャといった。家族のものは遠縁にあたるフロレンティーノ・アリーサを身元引受人にして、二年前に彼女を漁村のプエルト・パードレから彼のもとに送り出した。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』)

ビクーニャラクダ科の生き物のようである。しかし『コレラの時代の愛』に出て来る「アメリカ・ビクーニャ」とは、14歳の少女の名前なのである。14歳の少女に「アメリカ・ビクーニャ」なんていう名前をつけるとは!と思う。

 

私がここから連想したのは、創世記24章であった。

そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、アラム・ナハライムのナホルの町に向かって出発した女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答 えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示された のを知るでしょう。」僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。「水がめの水を少し飲ませてください。」すると彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。(創世記24:9~20)

創世記24章には、アブラハムの命を受けて、僕がイサクの嫁を探しに行った様子が子細に描かれている。ここに記されているように、リベカは「アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘」で、謂わば「遠縁にあたる」。

 

聖書には、また、次のような言葉が記されている。

神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。(箴言12:10)

安息日を守ってこれを聖別せよ。…。七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。(申命記5:12,14)

 

「神の御心を行うとはどうすることか」、「愛するとはどうすることか」と聖書に聴くなら、愛の対象は家畜にまで拡がっていくのだと示されるように思われる。

 

あるがままの彼女が好きだったし、老いの坂にさしかかったたそがれ時の激しい喜びをもって彼女を愛するようになった。
 (略)中には、用もないのに身元引受人と一緒に外出しないほうがいいとか、彼が口をつけたものは食べないようにとか、老いが伝染するから息がかかるほど顔を近づけないほうがいいと言うものもいたが、彼女はそんな忠告をまったく意に介さなかった。二人は、人がどう思おうが素知らぬ顔をしていた。自分たちが血縁関係にあることは周知のことだったし、年齢が極端に開いていたので妙な勘繰りをされることがなかったからだった。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』)

 

マルケスは、聖書の中の出来事をそこここに鏤めて物語を紡いでいるように思われる。

 

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