『コレラの時代の愛』と、主が舟に乗り込んでおられる!

 フロレンティーノ・アリーサはまばたきもせず船長の言葉に耳を傾けた。そのあと、窓越しに羅針盤の完全な円の形をした表示盤、くっきりと見える水平線、雲ひとつなく晴れ上がった十二月の空、どこまでも果てしなく航行できそうな川を眺めて、こう言った。

「このまままっすぐ、どこまでもまっすぐに進んで〈金の町〉まで行こう」

 フェルミーナ・ダーサは、聖霊の恩寵を受けたあの声を聞いたように思い、身体を震わせると、船長の方を見た。彼が運命を握っていたのだ。しかし、船長はフロレンティーノ・アリーサの霊感を受けたその言葉の圧倒的な力に押さえられて呆然となり、彼女の方を見ようとしなかった。

「真面目に言っておられるんですか?」と船長が尋ねた。

「わたしは生まれてこの方」とフロレンティーノ・アリーサが答え返した。「冗談を言ったことなど一度もない」

 船長はフェルミーナ・ダーサに目を向けたが、その睫は冬の霜の最初のきらめきをたたえていた。次いでフロレンティーノ・アリーサに目を戻すと、その顔からは揺るぎない決意と何ものも恐れない強いが読みとれた。限界がないのは死よりもむしろ生命ではないだろうか、と遅ればせながら気づいた船長は思わずたじろいだ。

「川をのぼり下りするとしても、いったいいつまで続けられるとお思いですか?」

 フロレンティーノ・アリーサは五十三年七ヵ月十一日前から、ちゃんと答を用意していた。

命の続く限りだ」と彼は言った。

         ガルシア=マルケス=作『コレラの時代の愛』より最後の2頁

 

ここには〈永遠〉ということが語られている。

エスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネによる福音書11:25)

 

 

夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。エスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。(マルコによる福音書6:47~51 新共同訳)

 

 

 

 

 

 

 

『コレラの時代の愛』とフェルミーナ・ダーサの面目躍如

一時期彼女と教会との関係がぎくしゃくした時期があった。あるとき、聴罪師が突然、あなたは一度も夫を裏切ったことはありませんかと尋ねた。相手がそう言い終わらないうちに、ぱっと席を立ち、返事もあいさつもせずに帰っていき、以後その聴罪師はもちろん、他の誰にも告解しなくなった。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』p489~490)

ここは、フェルミーナ・ダーサの面目躍如を表していて、好きな場面だ。

 

カトリックの方達には申し訳ないが、私も、罪の告白は人間なんかにするものじゃないという考えだ。

 

しかし、おそらくガルシア・マルケスカトリックだと思うので、この場面が余計に生きていると思えるのだ。

 

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。

私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(ヨハネの手紙一1:8,9)

 

 

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『コレラの時代の愛』のフロレンティーノ・アリーサはキリスト

あの町では本当かどうか分からないことでさえうわさになって広まるというのに、あなたのまわりには女性の影も見えないと言われているけど、あれはどういうことなのと尋ねた。さりげなくそう尋ねられたので、彼は声が震えることもなくこう答え返した。

「君のために童貞を守り通したんだよ」

 それが本当だったとしても、彼女は信じなかったにちがいない。彼のラブ・レターは意味内容ではなく、言葉で人の心を眩惑するような文章で綴られていたからだった。そういうことを言ってくれる心根がうれしかった。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』p489)

 

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こんなに多くの女を本当に愛することが出来るなんて神以外には出来ないことだろう!

 

しかし私は、それ故に、ガルシア・マルケスは『コレラの時代の愛』の主人公フロレンティーノ・アリーサをキリストとして描いただろうと考えているのだ。

 

ドストエフスキーは『罪と罰』で、ソーニャを両様に読み取れるように描いていると思えるが、マルケスは明らかにフロレンティーノ・アリーサをキリストとして描いている。

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『コレラの時代の愛』と、娼婦ラハブ

母親は息子の状態が恋の病というよりもコレラの症状に似ていたので恐慌をきたした。同種療法を行っている老人がフロレンティーノ・アリーサの名親になっていたが、トランシト・アリーサは人の囲いものになって以来、何かにつけてその老人に相談を持ちかけていた。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』p96)

 

 左目が外を向いたままのロレンソ・ダーサはオウムのようにもう片方の目で彼を見た。そして一語一語、吐き出すようにして言った。
「売春婦の息子め!」(p126)

 

 

私の『コレラの時代の愛』についても、佳境に入ってきた。

 

 

百年の孤独系図から、キリストの先祖を推し量ると、アウレリャノ大佐の子孫からだろう。ここに娼婦ピラル・テルネラが関係している。

そして、コレラの時代の愛の主人公フロレンティーノ・アリーサの母親は「売春婦」という設定になっている。

 

 

キリストの系図の中には、娼婦ラハブがいる。

 

 さてヨシュアは、シティムの宿営地から対岸へ二人の偵察者を送り込むことにしました。任務は、特にエリコの様子を調べることでした。二人は娼婦ラハブの家に着きました。怪しまれないよう、そこで夜を過ごす計画だったのです。(ヨシュア記2:1 リビングバイブル)

 

遊女ラハブと彼女の家族、彼女に連なるすべての者たちはヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住み着き、今日に至っている。彼女は、ヨシュアがエリコを偵察しに遣わした使者をかくまってくれたからである。(ヨシュア記6:25 聖書協会共同訳)

 

 

 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト系図

(略)

サルモンはラハブによってボアズをもうけ、ボアズはルツによってオベドをもうけ、オベドはエッサイをもうけ、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、(略)

ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロン移住からキリストまで十四代である。(マタイによる福音書1:1~17 聖書協会共同訳)

 

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眠れぬままに夜の海・・

 

目が覚めて眠れぬままに夜の海みていたと聞けば何かせつない

 

 

うっ血性心不全で入院した時は、まだ自分の足で病院内を歩くことができた。

海の見える新しい病院の階上に行って、ずっと海を見ていた、という。

 

今は、ベッドの中で、寝返りを打つことさえ出来ずにいる。

昼夜の区別をつけるために昼間はラジオを聞いて頂こうと思いますので、ラジオを持ってきて頂けますか?という看護師さんからのご連絡でラジオを持っていった。

朝はラジオを聞かせて頂いているという。夜は眠れているだろうか?