「ラザロの復活」とソーニャ
『罪と罰』の中で、ソーニャがラザロの復活を記した聖書個所を朗読する場面があって、それについて書こうと思っていたのだが、最近夫が買ってきた本の中にその場面について言及しているところがあったので、そのことに触れて書かせて頂こうと思う。
野口悠紀雄氏は『だから古典は面白い』で、「奇跡は現実の世界では起こらない」、「しかし、それにもかかわらず、現実の世界において奇跡は起こる」と書いておられる。
また、この中で野口悠紀雄氏が書いておられる「奇跡は…人間の心の中で起こる」という結論のような言葉は、キリスト教会の中ではおそらく受け入れられない言葉だろうと思う。私たちは、実際にラザロは死者の中から復活したのだと信じているのです、と。
それにもかかわらず、この野口氏の書かれたことは、そのまますっと通り過ぎることのできないものを含んでいると思わされる。
そう、「奇跡は現実の世界では起こらない」のであり、「しかし、それにもかかわらず、現実の世界において奇跡は起こる」からだ。
さて、私はこの場面を以下のように読んだ。
この場面ほどソーニャをイエスとして描いていると思える場面はないだろう、と。
ラスコーリニコフは彼女のほうをふり返り、胸をおどらせて彼女を見やった。そうだ、やはりそうだった! 彼女はもう本当の、ほんものの熱病にかかったように、全身をわなわなとふるわせている。彼の予期したとおりだった。彼女はいましも、あのもっとも偉大な、かつて例のない奇蹟についての言葉にさしかかろうとして、偉大な勝利感にとらえられていた。声は金属音のように甲高くなり、勝利と喜びがその声に躍動して、声を力づけた。(岩波文庫『罪と罰 中』p287~288)
(赤字表記は、ミルトスによる)
ここでは、ラスコーリニコフがソーニャのことを「ユロージヴァヤ(聖痴愚)」だと考えていたということが言われているのだが、ラスコーリニコフの捉えがそのままドストエフスキーの考えであるわけがないのだ。
「主よ、もう臭くなっております。墓に入って四日ですから」」
彼女は、四日という言葉にことさら力をこめた。
「イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。そこで、死者の横たわっていた洞穴から石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わが願いをお聞きくださったことを感謝します。あなたがいつでもわが願いを聞いてくださることを、よく知っております。しかし、こう申しましたのは、ここに立っている人びとに、あなたが私をつかわされたことを、信じさせんためであります」。こう言われてから、大声で「ラザロよ、出なさい」と呼ばわれた。すると、死者は出てきた。
(彼女は自分が目のあたり見たかのように、身体をふるわせ、悪寒を感じながら、感激にあふれた大声で読みあげた)
(略)
するとマリヤのところにきて、イエスのなさったことを見たユダヤ人たちの多くは、イエスを信じた」
それ以上、彼女は読まなかった。いや、読むことができなかった。本を閉じて、すばやく椅子から立ちあがった。
「ラザロの復活のところはこれだけです」彼女はきれぎれに、きびしい調子でささやき、わきのほうを向いて立ったまま、じっと動かなかった。何か気はずかしくて、彼のほうに目をあげるのがためらわれた。(『罪と罰 中』p288~289)
「四日」というのは、確実に死んだということを表している。そしてそれは「復活した」ということを確実なものにしているのである。それはつまり、ラザロを復活させたということが、「もっとも偉大な、かつて例のない奇蹟」であったということを表しているのである。
ここで引用した中で大事なのが、「彼女は自分が目のあたり見たかのように」と「何か気はずかしくて」である。
そして、ここを読むと、野口氏が取り上げていた、「ソーニャは、下を向いたまま、「何でもしてくださいます」と早口で答え」たのはどうしてだったかが分かると思う。
それが、ソーニャが朗読した聖書の中に記されているのである。
すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。(ヨハネによる福音書11:41,42 口語訳)
野口氏が引用した場面は、岩波文庫では以下のようになっている。少し前から抜粋引用する。
「じゃ、そのかわりに神さまは何をしてくださるんだい?」彼はさらに問いつめた。
ソーニャは返事に窮したように、長いこと黙っていた。彼女の弱々しい胸は、興奮のためはげしく波だっていた。
「言わないで! 聞かないでください! あなたは、その資格のない人です!・・・・・」きびしい怒りの目で彼を見つめながら、だしぬけに彼女が叫んだ。
『やはりそうだ! やはりそうだ!』彼は心のなかでしつこくくりかえした。
ラスコーリニコフが心の中で「やはりそうだ!」と思っているのは、ソーニャがユロージヴァヤだと確信しているということを表しているということである。
しかしこの場面でのソーニャの応答には、野口氏が言うような「矛盾をさらけ出すことへの恐れ」というより、父なる神を冒涜する者への怒りが込められていると捉えられる。その答えが朗読した聖書の中に表されていると思うのである。
そうすると、「彼女は自分が目のあたり見たかのように」、「何か気はずかしくて」、これらの言葉が全て矛盾なく一つに繋がっていくことが分かると思う。
ドストエフスキーが、ソーニャをキリスト・イエスとして描いていると考えるなら。
最後に、野口悠紀雄氏がドストエフスキー作品の中で言及しておられる聖書の二つの奇跡物語は非常に重要な二つであることを言っておきたいと思う。
ラザロの復活は、『罪と罰』の中でも記されているように、「もっとも偉大な、かつて例のない奇蹟」である。死人を復活させた奇蹟だからだ。
そしてこの後、イエスは十字架へと向かわれるのである。
そして、「カナの婚礼」の奇蹟は、イエスが最初に行った喜びと祝福に満ちた奇蹟なのだ。
ドストエフスキーは、『罪と罰』の中にラザロの復活を収め、最後の作品である『カラマーゾフの兄弟』の中に喜ばしい婚礼での奇蹟物語を収めたのだ。
私はこのことを野口氏から教えられなければ気づかなかった。
イエスは、水をぶどう酒に変えられました。水は清めのための水でした。清めは、旧約を象徴する行為です。その水がぶどう酒に変わったのです。
新約でぶどう酒と言えば、聖晩餐のぶどう酒です。ぶどう酒はキリストの血を表すものです。キリストの血はわたしたちの罪を贖い、清めます。神の恵みによって新しく生きることの象徴、しるしです。水がぶどう酒に変わったのは、旧約から新約へと変わった、キリストによって救いが成就し、古い契約(旧約)から新しい契約(新約)に変わったしるしです。https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2019/03/03/193721
野口悠紀雄氏は、パイーシイ神父が朗読する「カナの婚礼」を聞きながら夢を見た後、アリョーシャは新しく生まれ変わった、と言っておられるのだ。

『コレラの時代の愛』と、主が舟に乗り込んでおられる!
フロレンティーノ・アリーサはまばたきもせず船長の言葉に耳を傾けた。そのあと、窓越しに羅針盤の完全な円の形をした表示盤、くっきりと見える水平線、雲ひとつなく晴れ上がった十二月の空、どこまでも果てしなく航行できそうな川を眺めて、こう言った。
「このまままっすぐ、どこまでもまっすぐに進んで〈金の町〉まで行こう」
フェルミーナ・ダーサは、聖霊の恩寵を受けたあの声を聞いたように思い、身体を震わせると、船長の方を見た。彼が運命を握っていたのだ。しかし、船長はフロレンティーノ・アリーサの霊感を受けたその言葉の圧倒的な力に押さえられて呆然となり、彼女の方を見ようとしなかった。
「真面目に言っておられるんですか?」と船長が尋ねた。
「わたしは生まれてこの方」とフロレンティーノ・アリーサが答え返した。「冗談を言ったことなど一度もない」
船長はフェルミーナ・ダーサに目を向けたが、その睫は冬の霜の最初のきらめきをたたえていた。次いでフロレンティーノ・アリーサに目を戻すと、その顔からは揺るぎない決意と何ものも恐れない強い愛が読みとれた。限界がないのは死よりもむしろ生命ではないだろうか、と遅ればせながら気づいた船長は思わずたじろいだ。
「川をのぼり下りするとしても、いったいいつまで続けられるとお思いですか?」
フロレンティーノ・アリーサは五十三年七ヵ月十一日前から、ちゃんと答を用意していた。
「命の続く限りだ」と彼は言った。
ここには〈永遠〉ということが語られている。
夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。(マルコによる福音書6:47~51 新共同訳)
『コレラの時代の愛』とフェルミーナ・ダーサの面目躍如
一時期彼女と教会との関係がぎくしゃくした時期があった。あるとき、聴罪師が突然、あなたは一度も夫を裏切ったことはありませんかと尋ねた。相手がそう言い終わらないうちに、ぱっと席を立ち、返事もあいさつもせずに帰っていき、以後その聴罪師はもちろん、他の誰にも告解しなくなった。(ガルシア・マルケス『コレラの時代の愛』p489~490)
ここは、フェルミーナ・ダーサの面目躍如を表していて、好きな場面だ。
カトリックの方達には申し訳ないが、私も、罪の告白は人間なんかにするものじゃないという考えだ。
しかし、おそらくガルシア・マルケスはカトリックだと思うので、この場面が余計に生きていると思えるのだ。
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(ヨハネの手紙一1:8,9)

『コレラの時代の愛』のフロレンティーノ・アリーサはキリスト
あの町では本当かどうか分からないことでさえうわさになって広まるというのに、あなたのまわりには女性の影も見えないと言われているけど、あれはどういうことなのと尋ねた。さりげなくそう尋ねられたので、彼は声が震えることもなくこう答え返した。
「君のために童貞を守り通したんだよ」
それが本当だったとしても、彼女は信じなかったにちがいない。彼のラブ・レターは意味内容ではなく、言葉で人の心を眩惑するような文章で綴られていたからだった。そういうことを言ってくれる心根がうれしかった。(ガルシア・マルケス『コレラの時代の愛』p489)
こんなに多くの女を本当に愛することが出来るなんて神以外には出来ないことだろう!
しかし私は、それ故に、ガルシア・マルケスは『コレラの時代の愛』の主人公フロレンティーノ・アリーサをキリストとして描いただろうと考えているのだ。
ドストエフスキーは『罪と罰』で、ソーニャを両様に読み取れるように描いていると思えるが、マルケスは明らかにフロレンティーノ・アリーサをキリストとして描いている。
『コレラの時代の愛』と、娼婦ラハブ
母親は息子の状態が恋の病というよりもコレラの症状に似ていたので恐慌をきたした。同種療法を行っている老人がフロレンティーノ・アリーサの名親になっていたが、トランシト・アリーサは人の囲いものになって以来、何かにつけてその老人に相談を持ちかけていた。(ガルシア・マルケス『コレラの時代の愛』p96)
左目が外を向いたままのロレンソ・ダーサはオウムのようにもう片方の目で彼を見た。そして一語一語、吐き出すようにして言った。
「売春婦の息子め!」(p126)
私の『コレラの時代の愛』についても、佳境に入ってきた。
『百年の孤独』の系図から、キリストの先祖を推し量ると、アウレリャノ大佐の子孫からだろう。ここに娼婦ピラル・テルネラが関係している。
そして、『コレラの時代の愛』の主人公フロレンティーノ・アリーサの母親は「売春婦」という設定になっている。
キリストの系図の中には、娼婦ラハブがいる。
さてヨシュアは、シティムの宿営地から対岸へ二人の偵察者を送り込むことにしました。任務は、特にエリコの様子を調べることでした。二人は娼婦ラハブの家に着きました。怪しまれないよう、そこで夜を過ごす計画だったのです。(ヨシュア記2:1 リビングバイブル)
遊女ラハブと彼女の家族、彼女に連なるすべての者たちはヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住み着き、今日に至っている。彼女は、ヨシュアがエリコを偵察しに遣わした使者をかくまってくれたからである。(ヨシュア記6:25 聖書協会共同訳)
(略)
サルモンはラハブによってボアズをもうけ、ボアズはルツによってオベドをもうけ、オベドはエッサイをもうけ、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、(略)
ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロン移住からキリストまで十四代である。(マタイによる福音書1:1~17 聖書協会共同訳)

眠れぬままに夜の海・・
目が覚めて眠れぬままに夜の海みていたと聞けば何かせつない
うっ血性心不全で入院した時は、まだ自分の足で病院内を歩くことができた。
海の見える新しい病院の階上に行って、ずっと海を見ていた、という。
今は、ベッドの中で、寝返りを打つことさえ出来ずにいる。
昼夜の区別をつけるために昼間はラジオを聞いて頂こうと思いますので、ラジオを持ってきて頂けますか?という看護師さんからのご連絡でラジオを持っていった。
朝はラジオを聞かせて頂いているという。夜は眠れているだろうか?
