どこに愛があるというのか!ー『百年の孤独』
母親は息子の状態が恋の病というよりもコレラの症状に似ていたので恐慌をきたした。同種療法を行っている老人がフロレンティーノ・アリーサの名親になっていたが、トランシト・アリーサは人の囲いものになって以来、何かにつけてその老人に相談を持ちかけて…
「どこに愛があるというのか!ー『百年の孤独』1 」で、「しかしこの場面の描写は、これまでどんな書物の中にも見たことがないというような荒唐無稽なものではない。ちょっと聖書を読んだことがある者なら、ここから次のような箇所が連想されるはずである」…
聖書の中にはメルキゼデクという「王」とも「祭司」とも言われるちょっと不思議な人物が出て来る。創世記(14章)にはアブラハムを祝福したサレムの王として。そしてヘブル人への手紙では、「イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司」(6:20)というよ…
百年の孤独蔵して蟻の群「コリアンダーは昔つくつていましたよねぇ」それほど昔と思わないままいやぁもう30ねんはゆうに過ぎたヤブカラシのつるたぐりよせつつせんねんはいちにちのよういちにちはせんねんのよう夢のまた夢バビロニアは確か神に用いられ・・…
このところ世界各国で同性婚が取り上げられてきているが、『百年の孤独』の最初から最後までを貫いて横たわっているのは近親婚の禁忌である。 古い集落で共に育ったホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランはいとこ同士で結婚するが、母親か…
…、ある暑さのきびしい水曜日のことだった。籠を持ったひとりの年配の尼僧が屋敷を訪ねてきた。戸口に出たサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダは、てっきりただの届け物だと思い、美しいレースの布をかぶせた籠を受け取ろうとした。ところが尼僧は、フェルナンダ・…
やがて迎えた三月のある日の午後、紐に吊したシーツを庭先でたたむために、フェルナンダは屋敷の女たちに手助けを頼んだ。仕事にかかるかかからないかにアマランタが、小町娘レメディオスの顔が透きとおって見えるほど異様に青白いことに気づいて、「どこか…
お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。(ホセア書6:4) ドストエフスキーが愛せないと苦しんだ時、そこには死が立ちはだかっていただろう。けれど、私が愛せないと苦しんだのは、そんな高尚なものではなかった。 振り返ると、すぐ目の前に氷…