『コレラの時代の愛』と「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ福音書1:14)
ふと、アメリカ・ビクーニャのことを思い出して、胸を刺し貫かれるような痛みを感じて身をよじった。これ以上真実に目をつむっているわけにはいかなかった。彼はバスルームに閉じこもり、ゆっくり時間をかけ心ゆくまで泣きつづけた。そうしてはじめて彼は、自分があの少女を深く愛していたことを認めた。(ガルシア・マルケス『コレラの時代の愛』より)
上に引用したのは、フェルミーナ・ダーサと船出するために捨てた少女が自殺したという知らせを受けた後、フロレンティーノ・アリーサが少女を思って泣く場面である。
肉体を持ってこの世に生きるということは、別々の場所で同時に二人の人とは居られないということであり、どんなに愛していてもどちらかを選んで、片方を捨てなければならないということを物語っている。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。(ヨハネによる福音書1:14 口語訳聖書)
肉体を持つということは、愛することにおいて限界を孕むということである。
罪には様々なものがあるが、それら全てが「愛せない」というところに集約されていく、と私は思う。
ドストエフスキーは、キリストの教えに従って人を自分自身のようには愛せない、と嘆いた。
ドストエフスキーだけではない。「イエス様に愛しなさいと言われているのに、母のことが愛せない」と、涙を流した人もいる。私は、「人となって、私たちの苦しみを味わって下さったイエス様が、愛せないと苦しんでいる者に向かって愛さなきゃいけないなんて言うはずがない」と話した。