『コレラの時代の愛』と葛原妙子「たしかめがたくうすらなる人」

フェルミーナ・ダーサはフロレンティーノ・アリーサのことを考えて明け方までそこに座り続けた。彼女が思い浮かべたのは、思い出してもべつに懐かしいとも思わないロス・エバヘリオス公園で陰気な歩哨のように立っていた彼ではなく、年老い、足をひきずっている、今ここに存在している彼のことだった。いつでも手の届くところにいるのに、そこにいるとは分からない彼のことだった。ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』)

 

葛原妙子の歌、「南風のしづまる街にかたへなるたしかめがたくうすらなる人」については、「葛原妙子15 - 風と、光と・・・でも書いてきたのだが、『コレラの時代の愛』の「いつでも手の届くところにいるのに、そこにいるとは分からない彼のことだった」と、「たしかめがたくうすらなる人」とは、同じキリストを表していると思われる。

 

 

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

(略)

二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(ルカによる福音書24:13~16、29〜31)

 

 

 彼女たちが途方に暮れていると、輝いた衣を着た二人の天使が現れました。彼女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せました。天使たちは語りかけます。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」これがルカによる福音書の証言の核心です。

 罪の元々の意味には「的外れ」という意味がありますが、まさにこれです。彼女たちは、復活したイエスを墓の中、死者の世界に探します。彼女たちは、イエスが復活するなど考えられませんでした。この間違いをわたしたちもしてしまいます。キリストの救いに与ったのに、キリストと共にあることを忘れて、罪の世に留まり、罪がもたらした死の世界で、今も生きておられる復活の主イエスを探して、主がおられないと途方に暮れてしまいます。イエスが死の世界を打ち破られたのに、イエスと共に死の世界を抜け出さないで、死の世界でイエスがおられないと戸惑ってしまうのです。

ルカによる福音書 24:1〜12 - 聖書の言葉を聴きながら