『コレラの時代の愛』から「愛はいつ、どこにあっても愛であり、・・」

フェルミーナ・ダーサは息子の嫁とは仲良くしていて、気のおけない仲だったので、元気な頃のような強い言葉で胸のうちを打ち明けた。《一世紀も前の話だけど、昔あの気の毒な人と付き合っていたときは、若すぎるというので、何もかもぶち壊しにされて、今度は今度で、年をとりすぎているという理由で、また同じことがくり返されようとしているのよ》。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』より)

若い頃、フェルミーナ・ダーサは父親によってフロレンティーノ・アリーサと引き離されたのだが、フェルミーナ自身がフロレンティーノに興醒めしたという側面も持っている。

振り返ると、すぐ目の前に氷のような眼、蒼白の顔、恐怖で引きつった唇が見えた。深夜ミサの人ごみの中ではじめてそばで彼を見たときと変わっていなかったが、あのときと違って心の震えるような愛情ではなく、底知れない失望を感じた。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』より)

 

ある種の人間では、若い頃に、熱に浮かされたように修道女になりたいと思う場合があるのではないだろうか?それが、周囲の人間からの反対に遭い自分自身の気持もスッと冷めていったというような場合が・・。

私はこれらの記述を読んでいて、「修道」への憧れというようなことを頭に思い描いたのであった。

 

しかし、・・。

今では生前よりも夫がよく理解できるようになっていた。夫が自分の愛を伝えようと躍起になっていたことや、公的な場で彼女がさも支えであるかのように(結局そうはならなかったのだが)どっしり落ち着いていてほしいと彼が思っていた気持ちがよく理解できた。夫が存命中のある日、彼女は思わずかっとなって《あなたはわたしがどれほど不幸か分かってないのよ》と喚きたてたことがあった。いかにも彼らしく、動じた風もなく眼鏡をはずすと、子供のような目に透明な涙をいっぱいため、彼女の顔をその涙で濡らしながら、重みのある知恵深い言葉をかけた。《立派な夫婦にとって何よりも大切なことは、幸せではなく、安定だということをつねに忘れてはいけないよ》。その言葉を聞いたときは、つまらないことを言って、と思った。未亡人になって一人暮らしをはじめてみると、結婚したおかげで、二人がともに多くの幸せな時間をもてたことに改めて気づいた。

 

(中略)

 

亡くなった夫以上の伴侶は考えられなかったが、来し方をふり返ってみると、仲良く暮らしていたというよりもぶつかり合ってばかりいた。お互いに相手のことをまったく理解せず、つまらないことで口論し、いったん腹を立てると、なかなかおさまらなかった。彼女は突然溜息をついてこう言った。《しょっちゅう喧嘩をし、いろいろな問題に悩まされ、本当に愛しているかどうかも分からないまま何年もの間幸せに暮らすことができるというのは、いったいどういうことなのかしら》。彼女が自分の思いを吐き出すと、誰かが月明かりを消した。

 

(中略)

 

結婚生活という厳しいイバラの道を乗り越え、紆余曲折を経たのちに愛の本質にたどり着いたように感じていた。人生の辛酸を舐めつくしたあと、熱情がしかけるさまざまな危険や錯覚から生じる手ひどいしっぺ返し、失望の生み出す幻想を越え、愛をも越えて今は平穏な時間を過ごしていた。二人はともに長い人生を生き抜いてきて、愛はいつ、どこにあっても愛であり、死に近づけば近づくほどより深まるものだということにようやく思い当たったのだ。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』より)

 

最後の引用部分の「二人はともに長い人生を生き抜いてきて」「二人」は、夫であったウルビーノではなく、フロレンティーノ・アリーサとフェルミーナ・ダーサのことを指している。が、これは、その後に続く「愛はいつ、どこにあっても愛であり」という言葉と共に考える必要があるだろう。「修道」を志して修道院に入るだけが全てではない、「本当に愛しているかどうかも分からない」結婚生活という「修道」の中にも「愛」はあるのだ、と語っているように思える。

 

洗礼準備会で「夫婦であってもなかなか理解し合えるものではない」と牧師から聞いた時、お二人の関係は良くないのだろうか等と思ったものだが、自分自身も結婚して長い年月を過ごしてみると、その言葉がその時の牧師夫妻に固有のものではなく、人間全般の愛の限界を表す言葉として語られたものだったと今では理解することができる。

 

そのときしみひとつないリネンのスーツを着たフベナル・ウルビーノ博士の姿が目に入った。職業的な厳しさと心をとろかすやさしさをたたえ、公的なものを愛してやまなかった博士が、過去から来た船の上から白い帽子をふって別れのあいさつをした。(略)フェルミーナ・ダーサはフロレンティーノ・アリーサのことを考えて明け方までそこに座り続けた。彼女が思い浮かべたのは、思い出してもべつに懐かしいとも思わないロス・エバヘリオス公園で陰気な歩哨のように立っていた彼ではなく、年老い、足をひきずっている、今ここに存在している彼のことだった。いつでも手の届くところにいるのに、そこにいるとは分からない彼のことだった。船はエンジン音を響かせながら明け方の輝くバラ色の光に向かって彼女を運んでいった。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』より) 

 

ここに愛がある。(ヨハネの第一の手紙4:10)

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(ヨハネの手紙一4:16)

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。(ヨハネの手紙一4:20)

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。(ルカによる福音書17:21)

 

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