『コレラの時代の愛』と「あなたは…わたしのために体を備えてくださいました」(ヘブライ人への手紙10:5)

素裸の遺体は硬直し、奇妙な具合によじれていた。目は大きく見開かれ、身体は青黒くなり、昨夜会ったときより五十歳ばかり老け込んだように思われた。瞳孔は透き通り、ひげと髪の毛は黄ばんでいて、縫合の跡が見えるごつごつした古傷が腹部を横切っていた。長年松葉杖をついていたので、上半身と腕はガレー船の奴隷のようにたくましかったが、萎えた両脚はまるでみなしごのように頼りなげだった。フベナル・ウルビーノ博士はちらっと遺体を見て、言いようのない悲しみを覚えたが、長年、死を相手に不毛の戦いを続けてきた博士がそのような感情を抱くことはほとんどなかった。

「なんてばかなことをしたんだ」と博士は彼に語りかけた。「だが、これでもう苦しむこともないだろう」

 

(中略)

 

 ペンテコステの日曜日に、ウルビーノ博士はジェレミア・ド・サン・タムールの遺体を覆っていた毛布を持ち上げた。それまで医師として、また信心深い人間として何一つやましいところのない人生を送ってきたが、その自分が気づかずに見過ごしてきたものが、あの日に暴き立てられたように感じた。長年死に慣れ親しみ、死を相手に戦い、いじり回してきたはずなのに、勇気を出して死を真正面から見詰め、死のほうも彼を見詰め返すといった体験は一度もなかったように思われた。死が恐ろしかったのではない。そうではなかった。いつだったか、ある夜、悪夢を見て目を覚ました。彼はつねづね、自分くらいの年齢だといつお迎えが来てもおかしくないと考えていたが、悪夢を見た夜は死が直近の現実のように感じられた。以後、死の恐怖は彼の心の中に住みつき、それと一緒に生き、彼の影にかぶさるもうひとつの影になっていた。それまで想像で作り上げた確信でしかなかったものが、あの夜に実体を備えたものとして博士の目の前に現れてきたのだ。その恐ろしい真実を明らかにするための手段として神慮がジェレミア・ド・サン・タムールを選んだというのは、ありがたいことだった。博士はそれまで彼を、恩寵に浴しているのに、そのことに気づいていない聖人のような人間だと思っていた。しかし、あの手紙によって、彼の正体を、おぞましい過去を、策謀を練り上げる恐るべき能力を知ることになった。そしてそれが分かったとき、博士は何か決定的で、取り返しのつかないことが自分の身に起こったように感じた。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』より)

コレラの時代の愛』は、ジェレミア・ド・サン・タムールの検死の場面から始まる。

罪の世界にあって、私達は生まれてきても、老いていかなければならず、終いには死なねばならない。

「六十になったら、どんなことがあっても自分の命を絶つつもりだ」と周到に計画を立ててきたジェレミア・ド・サン・タムールの死に遭って、フベナル・ウルビーノは、自身の中にもある自死への誘惑に気づくのである。

 

私はここで葛原妙子の短歌を思い浮かべる。

かすかなる灰色を帶び雷鳴のなかなるキリスト先づ老いたまふ 『をがたま』

(http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20151126/p1)

 

「老い」は「死」よりも手強いかも知れない。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。」(詩編90:10)

ウルビーノ自身、多くの薬を飲んでいた。

…、そんな博士の日常生活は決まりきったものだった。一番鶏の鳴き声で目を覚ますと、一時間ごとに秘密の薬を服用した。つまり、気力を奮い立たせるために臭化カリウムを、雨季になると痛む関節のためにサルチル酸エステルを、めまいを押さえるためにライ麦の麦角菌を溶かした液体を、熟睡できるようにベラドンナを飲むといった具合だった。四六時中何か薬を飲んでいたが、人に見られないよう神経を使っていた。長年にわたって医療の実践と教育を行ってきた中で、一貫して、老いの苦痛を和らげるために緩和剤を用いてはならないと言い続けてきたからだった。これはつまり、彼にとっては自分の苦痛よりも他人の苦痛のほうが耐えやすいということにほかならない。ポケットの中にはいつも樟脳を詰めた小袋が忍ばせてあった。いろいろな薬を飲んでいるせいで生じる不安を取り除くために、誰も見ていないときにこっそり嗅いでいた。(『コレラの時代の愛』より)

コレラの時代の愛』は、「肉体を持つ」ということを一つの重要なテーマとして描いている。

 

体、肉体を持つということは限界、すなわち死を孕むことにほかならない。しかし・・。

 海が荒れた最初の夜はもちろん、海が凪いだあとも、いや、長く続いた結婚生活を通じて、夫がフェルミーナ・ダーサの恐れていたような暴力的な行為に及んだことはただの一度もなかった。…。リオアーチャからスクーナーで町に戻ってきたときと同じように彼女は船酔いのひどい苦しみを味わう羽目になった。夫は一睡もせずに彼女のそばについて力づけた。卓越した名医として知られる彼も、船酔いが相手ではそれくらいのことしかできなかった。しかし、三日目、船がグアイラの港を出た後、嵐が収まった。二人は長い時間を一緒に過ごし、いろいろな話をしていたので、すっかり打ち解けていた。

(中略)

緊張が解けたように思われたので、彼ははじめてナイトドレスを脱がそうとしたが、いかにも彼女らしく衝動的に彼の手を抑えると、こう言った。《自分でできます》。そう言ってナイトドレスを脱ぎ捨てると、棒のように身体を硬くした。闇の中に彼女の真っ白な身体が浮かび上がったが、それがなければ、ウルビーノ博士は彼女がどこかに消えてしまったと思ったにちがいない。

(中略)

 彼女を愛していないことは自分でもよく分かっていた。彼女と結婚したのは、その高慢なところや生真面目さ、性格的な強さに惹かれてのことだが、彼自身の虚栄心もいく分かはあった。彼女のキスを受けているうちに、この女性となら本当の愛をはぐくむことができるだろうと確信するようになった。(『コレラの時代の愛』より)

私は、「肉体を持つということは、愛することにおいて限界を孕むということである」(https://myrtus77.hatenablog.jp/entry/2021/01/22/113452)

 と書いた。

しかし同時に、「愛の行為は肉体を持つことによって可能になる」と言わねばならないだろう。

苦しんでいる者に「手を差し伸べる」というように、具体的な愛の行為には身体が必要なのである。

 

聖書は、夫婦の愛の行為においても、身体を重んじるように勧めている。

夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。(コリントの信徒への手紙一7:3~5)

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。…。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。(エフェソの信徒への手紙5:28,30)

 

彼女が思い浮かべたのは…年老い、足をひきずっている、今ここに存在している彼のことだった。いつでも手の届くところにいるのに、そこにいるとは分からない彼のことだった。(『コレラの時代の愛』より)

 

市に嘆くキリストなれば箒なす大き素足に祈りたまへり 葛原妙子『鷹の井戸』

http://myrtus77.hatenablog.com/search?q=%E5%B8%82%E3%81%AB%E5%98%86%E3%81%8F

 

それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」(ヘブライ人への手紙10:5~7)

 

生誕ののち数時間イエズスはもつとも小さな箱にいましぬ 葛原妙子『をがたま』

 

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