どこに愛があるというのか!ー『百年の孤独』5

聖書の中にはメルキゼデクという「王」とも「祭司」とも言われるちょっと不思議な人物が出て来る。創世記(14章)にはアブラハムを祝福したサレムの王として。そしてヘブル人への手紙では、「イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司」(6:20)というようにキリストの予型(『新共同訳聖書聖書辞典』)として記されている。

 

一方、『百年の孤独』にはメルキアデスというジプシーの男が登場する。「アルキメデス」の文字を入れ替えたようなこの名前の男に私は最初から引っ掛かっていたのだが、マルケスが南ユダの興亡を描いているとしたら、メルキアデスがマコンドを創設したホセ・アルカディオ・ブエンディアに寄り添うような形で登場するのにも納得できる。

ルキアデスは羊皮紙に何やら予言めいたものを書き記して死ぬが、ここに記されたものを解読しながらアウレリャノ・バビロニアは一気に滅亡へと突き進んでいくのである。

 

(『百年の孤独』でも「聖書」と表現されて出て来る「聖書」があるのだが、この「聖書」がどういうものを表しているのか今のところ私にははっきり掴み切れていないのでこう書くのだが)本物の聖書には、神がバビロンを用いて南ユダを滅ぼすが、最終的にバビロンも主が滅ぼされるように記されている。

 

百年の孤独』がユダの興亡を記しているなら、「ここには愛はない!」と言えるだろう。

聖書は言っている。

お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。(ホセア書6:4)
憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。(ダニエル書9:9)

 

あぁ、やはり『百年の孤独』は「どこに愛があるというのか!」であったと思う。

 

しかし、『コレラの時代の愛』は「ここに愛がある!」なのだ。

 

けれど、『コレラの時代の愛』が「ここに愛がある!」だとしても、そんなに甘いロマンチックなものではない。むしろ『百年の孤独』よりも詳細を論述するのが憚られるような凄まじい内容だと言えるだろう。

これは、ガルシア・マルケス信仰告白に等しいのである。私などが書き切ることが躊躇われるようなものなのだ。