罪について、三度(みたび)− ドストエフスキーから

・・。そして、小林秀雄E・H・カーにならって、『手記』の陰鬱な気分と苛立たしい調子を醸しだした要因としている一八六四年冬の不幸一色の作家の生活が、おそらくそれを補完するものなのだろう。その冬、ドストエフスキーは、肺病で死にかかっていた最初の妻マリヤの病床に、自身が痔疾と膀胱炎に悩まされながら、ほとんどつききりで看護にあたり、かたわら『地下室の手記』の執筆を進めていた。マリヤは、『手記』の第二部がまだ完成していなかった四月十六日、世を去った。その日の日記にドストエフスキーは次のように記している。

「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする・・・人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう」
 

江川卓=訳、ドストエフスキー=作『地下室の手記』(昭和44年発行、新潮文庫)「あとがき」より

 

 

上に引用したのは、ドストエフスキー地下室の手記』の「あとがき」の中の江川卓氏の一文である。

若い頃私は『地下室の手記』にのめり込んで読んだのであるが、その中身より「あとがき」のこの部分がずっと心に引っ掛かっていて、数年前に古書でドストエフスキーの『作家の日記』上下巻を買い求めたのだった。ところが日記の始まりは1873年からで、見たかった日付のこの部分は載っていなかった。

この最初の妻マリヤの看取りの体験が、作家活動の動機を支えるものとして『カラマーゾフの兄弟』に至るまでドストエフスキーの根底に横たわっていたと考えられる。若い愛人に血道を上げ、妻を放ってヨーロッパ旅行などに出掛けながらも、この時、ドストエフスキーは愛することにおける人間の限界に直面していたのだ、と私は思う。

キリストの前に立つ時、私達人間は、「愛せない」という罪に直面させられる。ここに行き当たらない者は、キリストの前に立ってはいないと言えるかもしれない。たとえ、「自分はキリスト教徒である」と名告っていたとしても・・。