『コレラの時代の愛』と「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ福音書1:14)

ふと、アメリカ・ビクーニャのことを思い出して、胸を刺し貫かれるような痛みを感じて身をよじった。これ以上真実に目をつむっているわけにはいかなかった。彼はバスルームに閉じこもり、ゆっくり時間をかけ心ゆくまで泣きつづけた。そうしてはじめて彼は、自分があの少女を深く愛していたことを認めた。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』より)

 

上に引用したのは、フェルミーナ・ダーサと船出するために捨てた少女が自殺したという知らせを受けた後、フロレンティーノ・アリーサが少女を思って泣く場面である。

肉体を持ってこの世に生きるということは、別々の場所で同時に二人の人とは居られないということであり、どんなに愛していてもどちらかを選んで、片方を捨てなければならないということを物語っている。

 

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。(ヨハネによる福音書1:14 口語訳聖書)

 

肉体を持つということは、愛することにおいて限界を孕むということである。

 

罪には様々なものがあるが、それら全てが「愛せない」というところに集約されていく、と私は思う。

ドストエフスキーは、キリストの教えに従って人を自分自身のようには愛せない、と嘆いた。
 

ドストエフスキーだけではない。「イエス様に愛しなさいと言われているのに、母のことが愛せない」と、涙を流した人もいる。私は、「人となって、私たちの苦しみを味わって下さったイエス様が、愛せないと苦しんでいる者に向かって愛さなきゃいけないなんて言うはずがない」と話した。

 

 

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『コレラの時代の愛』とビクーニャ(ラクダ科)

 名前をアメリカ・ビクーニャといった。家族のものは遠縁にあたるフロレンティーノ・アリーサを身元引受人にして、二年前に彼女を漁村のプエルト・パードレから彼のもとに送り出した。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』)

ビクーニャラクダ科の生き物のようである。しかし『コレラの時代の愛』に出て来る「アメリカ・ビクーニャ」とは、14歳の少女の名前なのである。14歳の少女に「アメリカ・ビクーニャ」なんていう名前をつけるとは!と思う。

 

私がここから連想したのは、創世記24章であった。

そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、アラム・ナハライムのナホルの町に向かって出発した女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答 えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示された のを知るでしょう。」僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。「水がめの水を少し飲ませてください。」すると彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。(創世記24:9~20)

創世記24章には、アブラハムの命を受けて、僕がイサクの嫁を探しに行った様子が子細に描かれている。ここに記されているように、リベカは「アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘」で、謂わば「遠縁にあたる」。

 

聖書には、また、次のような言葉が記されている。

神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。(箴言12:10)

安息日を守ってこれを聖別せよ。…。七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。(申命記5:12,14)

 

「神の御心を行うとはどうすることか」、「愛するとはどうすることか」と聖書に聴くなら、愛の対象は家畜にまで拡がっていくのだと示されるように思われる。

 

あるがままの彼女が好きだったし、老いの坂にさしかかったたそがれ時の激しい喜びをもって彼女を愛するようになった。
 (略)中には、用もないのに身元引受人と一緒に外出しないほうがいいとか、彼が口をつけたものは食べないようにとか、老いが伝染するから息がかかるほど顔を近づけないほうがいいと言うものもいたが、彼女はそんな忠告をまったく意に介さなかった。二人は、人がどう思おうが素知らぬ顔をしていた。自分たちが血縁関係にあることは周知のことだったし、年齢が極端に開いていたので妙な勘繰りをされることがなかったからだった。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』)

 

マルケスは、聖書の中の出来事をそこここに鏤めて物語を紡いでいるように思われる。

 

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『コレラの時代の愛』と「ラーハム=子宮から広がる思いやり」

主よ、あなたの憐れみは豊かです。(詩編119:156)

 

「慈しみ」や「憐れみ」を表す言葉で良く聞くのは「ヘセド」という言葉だが、156節の「主よ、あなたの憐れみは豊かです」の「憐れみ」は、「ラーハム」というヘブライ語で、辞書には「胎児をかわいがるように子宮から広がる思いやり」と記されているそうだ。

神が三位一体の神であれば、母性的な質が神の中にあっても何ら不思議でないどころか、あって当然だろうとさえ思ってきたのだが、元々の言葉にこういった説明がなされているものがあると知って、ますます面白いと思った。

ダニエル書の「憐れみと赦しは主である神のもの」(9:9)の「憐れみ」と訳された言葉も、この「ラーハム」のようだ。

 

彼女の産着の匂いのせいで彼の内に秘められていた母性本能が目覚めた。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』)

 ここで言われている「彼」とは、フロレンティーノ・アリーサのことである。男性である。そしてこの物語の主人公である。

 

 

 

 

 

 

 

『コレラの時代の愛』とローマ人への手紙7章1~4節

ローマ人への手紙7章1節から3節までの聖書朗読を聞いて、ガルシア・マルケスの『コレラの時代の愛』の一節を思い浮かべた。

先ず、ローマ人への手紙から引用する。

それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。(ローマ人への手紙7:1~3)

パウロはローマ人でこんな喩えを用いて語っていたのかと思わされたのだが、マルケスはここの御言葉を踏まえて次の場面を描いたのではないかと思った。

そのときしみひとつないリネンのスーツを着たフベナル・ウルビーノ博士の姿が目に入った。職業的な厳しさと心をとろかすやさしさをたたえ、公的なものを愛してやまなかった博士が、過去から来た船の上から白い帽子をふって別れのあいさつをした。以前、博士は彼女にこう言ったことがあった。《男というのは偏見に縛られたあわれな奴隷なんだよ。それにひきかえ、女性はある男と寝ると決めたら、どんな障害でものり越えていく、要塞があれば攻め落とすし、道徳的な問題があっても、平気で無視できる。そうなると、神様も眼中にないからね》。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』より)

この場面は、亡くなった博士が霊となって、フロレンティーノ・アリーサと共に船出したフェルミーナ・ダーサの元に別れを告げに来る場面である。

 

ドストエフスキーも投獄中に聖書を読んだと言われているが、マルケスも聖書は熟読していただろうと思われる。

 

コレラの時代の愛』から「ローマ人への手紙」を逆照射すると、聖書の語っていることが理解出来るのではないかと思った。

わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。(ローマ人への手紙7:4)

「他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかた」とは、イエス・キリストのことである。私たちは律法に死んで、キリストのものとなるのだ。

 

ローマ人への手紙は、「義人はいない、ひとりもいない」(3:10)にも象徴されているように、人間の側の正しさではなく、徹底して神の優越性を語る。

11章32節に記されているように、神は自在に人間に臨まれる。それは全ての人に救いを得させるためである。

私たちは、律法に縛られている状態からキリストのものとなり、本当の自由へと解放されるのである。

 

ローマ人への手紙から『コレラの時代の愛』に戻るなら、どうなるだろう?

「律法に死んで、キリストのものとなる」、ウルビーノ博士からフロレンティーノ・アリーサのものとなるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

『コレラの時代の愛』からティリッヒ神学へ

「これがどういうものなのかずっと分からなかったんです」と彼女が言った。
 彼はいちいちその場所に彼女の手を導きながら、教師のように生真面目に説明してやり、彼女は彼女で模範的な生徒らしくおとなしく言いなりになっていた。頃合を見て彼は、明かりをつけたほうが説明しやすいんだがね、と言った。明かりをつけようとしたが、彼女はその手を押しとどめて、こう言った。《手を使ったほうが分かりいいんです》。実を言うと明かりをつけたかったのだが、人から命じられるのでなく、自分からそうしたかったのだ。実際彼女自身が明かりをつけた。明かりの下で、彼女はシーツに包まって胎児のような姿勢をとっていた。しかし、あの興味の対象である生き物をためらうことなくつかむと、右を向けたり、裏返したりして調べていたが、単に科学的な興味以上のものを抱きはじめたように思われた。最後にこう言った。《なんだか変な形ね、女性のものより醜いわ》。彼は、たしかにその通りだと言い、醜いだけでなくほかにもいろいろと不便なことがあると言って、こう付け加えた。《これは長男と同じなんだ。これのために一生働き続け、あらゆる物を犠牲にし、挙句の果てに結局これの言いなりになるんだからね》。彼女は、これはなんの役に立つの、あれはどうなのと次々に質問を浴びせながら、つぶさに調べ続けた。そして、もうこれでいいだろうと思ったところで、両手でその重さを測り、それほど重いものでないと分かると、軽蔑したようにふたたびポイッと投げ出した。
「それに、余計なものがいっぱいくっついていますわ」と言った。
 それを聞いて彼は戸惑った。彼の学位論文のタイトルが、『人体の器官を単純化した場合の効用について』というものだったからだ。人類が若い頃なら必要だったかもしれないが、現代にあっては役に立たないか、重複している機能が沢山ついていて、人体は今ではもう古びたものになっているように思われる。人体はもっと単純であっていいし、そうなれば病気にかかる率も低くなるはずだ。さらに、論文の結びでこう書いた。《もちろん人間は神によって創造されたものであるが、いずれにしても理論的な用語によって明確にしておくことが望ましい》。それを聞いて、彼女はごく自然に、本当に楽しそうに笑ったが、彼はその機を逃さず彼女を抱きしめると、はじめてその口にキスをした。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』)

この場面を読んで、ティリッヒの言う「同一性と差異性の同一性」が三位一体の神に根拠をおいていたのだ、と理解した。

父、子、聖霊という全く相容れないものが、それぞれでありながら、神の中で一つとなっている。

全く相容れないものが一体となる。聖書に記された結婚の奥義はここにある。それ故、男と女でなければならないのだ。

 

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1:27)

 

もっとも遠いと思われるもの、もっとも理解出来ないと思われるもの、全く相容れないものがそれぞれでありながら一つとなる。ここにあらゆるものの奥義がある。すなわち、平和というものの、共存というものの、そして、愛というものの。

 

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三位一体を花で・・。

 

以下は、老齢の牧師の『旧約聖書に聴く』から

コヘレト「わたしは見た」
 しかし、見る、ではなく「わたし」に注目しよう。何度も「わたし」と言う。こんなに自分のことを語る人を旧約聖書の中に見るだろうか。しかも「わたしは」と自分を強調する。ヘブル語ではアニーと言う。(略)
 コヘレトは十数回「アニー」と言う。自分が神の「アニー」を前にして、アブラハムの言葉を借りれば「ちりひじ」に過ぎない、むなしい者であることを徹底的に知りつつ、臆せず何度も何度も「アニー」を繰り返す。「わたし」の考え、洞察、見方、意見、発言がどんなにむなしいものであるかを知りつつ、あえて自分をそこに押し出す理由は何であろうか。ヨーロッパの文化と歴史をよく知っている加藤周一が、そこに生きる「わたし」の強さに驚き、…日本の伝統には「わたし」はない、と言った。…。古語辞典でも現代国語辞典でも「われ」は「わたし」と「あなた」の両方に用いられる、と説明してある。無私、無我、没我滅私が理想なのだろうか。我を張る人間は嫌われるのだろうか。この国の中で「わたし」はどうなって行けばよいのか、重い課題である。
 1923年、マルチン・ブーバーというユダヤ人が「我と汝」という小さな論文を書いて、第一次世界大戦後のヨーロッパに大きな反響を興した。(略)
 コヘレトが「わたし」を力強く押し出して来ることができる根拠は、真の「わたし」である神にある。コヘレトが初めから「わたし」として存在するわけがない。それは造られた「わたし」である。その「わたし」が造り主に向かって「あなた」と呼ぶことが出来る。ほめたたえることができるし、そう命じられている。そうしてもよいどころか、そうすべきであり、心からそうしたいのである。そうしない「わたし」はもはや「わたし」ではない。万事につけて活き活きとした「われとなんじ」が生起する。(『福音時報』10月号)

 

 

 

 

 

  

どこに愛があるというのか!ー『百年の孤独』5

聖書の中にはメルキゼデクという「王」とも「祭司」とも言われるちょっと不思議な人物が出て来る。創世記(14章)にはアブラハムを祝福したサレムの王として。そしてヘブル人への手紙では、「イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司」(6:20)というようにキリストの予型(『新共同訳聖書聖書辞典』)として記されている。

 

一方、『百年の孤独』にはメルキアデスというジプシーの男が登場する。「アルキメデス」の文字を入れ替えたようなこの名前の男に私は最初から引っ掛かっていたのだが、マルケスが南ユダの興亡を描いているとしたら、メルキアデスがマコンドを創設したホセ・アルカディオ・ブエンディアに寄り添うような形で登場するのにも納得できる。

ルキアデスは羊皮紙に何やら予言めいたものを書き記して死ぬが、ここに記されたものを解読しながらアウレリャノ・バビロニアは一気に滅亡へと突き進んでいくのである。

 

(『百年の孤独』でも「聖書」と表現されて出て来る「聖書」があるのだが、この「聖書」がどういうものを表しているのか今のところ私にははっきり掴み切れていないのでこう書くのだが)本物の聖書には、神がバビロンを用いて南ユダを滅ぼすが、最終的にバビロンも主が滅ぼされるように記されている。

 

百年の孤独』がユダの興亡を記しているなら、「ここには愛はない!」と言えるだろう。

聖書は言っている。

お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。(ホセア書6:4)
憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。(ダニエル書9:9)

 

あぁ、やはり『百年の孤独』は「どこに愛があるというのか!」であったと思う。

 

しかし、『コレラの時代の愛』は「ここに愛がある!」なのだ。

 

けれど、『コレラの時代の愛』が「ここに愛がある!」だとしても、そんなに甘いロマンチックなものではない。むしろ『百年の孤独』よりも詳細を論述するのが憚られるような凄まじい内容だと言えるだろう。

これは、ガルシア・マルケス信仰告白に等しいのである。私などが書き切ることが躊躇われるようなものなのだ。

 

 

 

 

 

 

どこに愛があるというのか!ー『百年の孤独』4

      百年の孤独蔵して蟻の群
コリアンダーは昔つくつていましたよねぇ」それほど昔と思わないまま
いやぁもう30ねんはゆうに過ぎたヤブカラシのつるたぐりよせつつ
せんねんはいちにちのよういちにちはせんねんのよう夢のまた夢
バビロニアは確か神に用いられ・・・・・夢のなかでヤブカラシ咲く
さっき目が覚めたのは2時だったよなぁいつのまにやらもう明け方に
   まぁそのうち死ねばずっと寝ていられるからいいか復活で叩き起こされるかも知れないけど

 

百年の孤独』の系図を見ていると、男性はアルカディオかアウレリャノを受け継いでいるのが分かる。一族を滅亡へと導く最後のアウレリャノには括弧書きで(バビロニア)と書かれている。この子は、メメとマウリシオ・バビロニアの間に生まれた子供だからだ。

そこでハッと思い浮かべたのが、南ユダ王国を滅ぼしたのがバビロニアだったということだった。エレミヤ書には、「わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す」(エレミヤ書20:4)と記されている。バビロンはバビロニア帝国の首都」(『新共同訳聖書聖書辞典』)である。

 

さて、エゼキエル書には次のように記されている。

人の子よ、かつて二人の女性がいた。彼女たちは同じ母の娘であった。彼女たちはエジプトで淫行を行った。…。彼女たちの名は、姉はオホラ、妹はオホリバといった。彼女たちはわたしのものとなり、息子、娘たちを産んだ。彼女たちの名前であるオホラはサマリア、オホリバはエルサレムのことである。オホラはわたしのもとにいながら、姦淫を行い、その愛人である戦士アッシリア人に欲情を抱いた。

 

妹オホリバはこれを見たが、彼女の欲情は姉よりも激しく、その淫行は姉よりもひどかった。

 

そこで、バビロンの人々は愛の床を共にするために彼女のもとに来り、淫行をもって彼女を汚した。彼女は彼らと共に自分を汚したが、やがてその心は彼らから離れた。(エゼキエル書23:2~5、11、17)

 

アウレリャノ・バビロニアの母がメメであり、アウレリャノ・バビロニアとの間に豚のしっぽを持つ赤ん坊を生むアマランタ・ウルスラがメメの妹である。

エゼキエル書23章6節には「それは紫の衣を着た高官、知事、長官という皆、好ましい男たち、馬に乗る騎士たちであった」と、姉オホラの相手の様子が記されているが、メメの相手となるマウリシオ・バビロニアは車を運転する者としてメメの前に登場する。

 

読み込んで書き連ねていきながら、だんだんとガルシア・マルケスの途方もない巨人が姿を現して来るようでおののいているところへ、また一つハッと思い浮かべたことがあった。アブラハムと妻サラの関係である。サラは、アブラハムの異母妹であったのだ。

アブラハムは答えた。「…。事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです」(創世記20:11~12)

 

あぁ、マルケスは、ユダ王国の興亡を描いていたのか!?

 

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